世界最大出力の電波塔・旧依佐美送信所

SNG 話のツールボックス

世界最大出力の電波塔・旧依佐美送信所

刈谷営業所のある野田町は、1955年に刈谷市に合併されるまで碧海郡依佐美(よさみ)村野田と呼ばれていました。依佐美は現在は中学校の名前で残っています。依佐美地区には広大な田園風景が広がっており、その風景からはこの地区が古くから湿地帯を開墾した穀倉地帯であったことが想像されます。

鉄塔全景(1990年代当時)

実はこの地には昔、巨大な電波塔が建っていました。紅白で塗装されたその塔は全部で8基あり、刈谷から約15㎞離れた本社の碧南市からもよく見えました。このあたりの人は鉄塔を見れば方向が理解できましたので、そのおかげで夜でも方向を見失わずに済みました。この塔は1997年に撤去され、跡地に記念館が建っています。今はなき「依佐美の鉄塔」について、書いてみたいと思います。

依佐美送信所記念館

「対欧無線通信発祥地」石碑

1980年代を思い起こすと、漠然とした不安が二つありました。一つはエネルギー危機ともう一つは冷戦です。私が子供時代に読んでいた科学雑誌には「21世紀には石油資源が枯渇する」などと書かれていましたし、1970年代には2度のオイルショックが起こり、現実の問題でした。1979年にはソビエトに「鉄の女」と呼ばれたマーガレット・サッチャーが英国の首相となり、1981年にはロナルド・レーガンが米国大統領、日本は1982年から第一次中曽根内閣ですから、着々と反共包囲網が展開されている様相でした。オホーツク海周辺で一方的に拿捕される漁民が多く、時折テレビに映るソ連のブレジネフ書記長に「怖い人」というイメージをいつの間にか抱いていました。

NAVAL COMMUNICATION STATION JAPAN(米海軍通信隊 標識)

塀の向こうはアメリカだった。

当時私が高校の先生に教わった事があります。 「第三次世界大戦が始まったら、ソ連から核弾頭付きのICBMが飛んでくる。第一目標は依佐美」 おそらく新聞やテレビの報道で、そのような事が書かれていたのだと思います。ご存じの通り1989年にベルリンの壁が崩壊し、東西の冷戦は終わりました。今はロシアからミサイルが飛んでくる心配をする人はだいぶ少なくなっていると思いますが、20世紀が終わるまで私たちは「人類滅亡」の恐怖を心のどこかに隠していたと思います。

依佐美の鉄塔の一部を利用した記念鉄塔

さて、今は撤去されてしまった「依佐美の鉄塔」ですが、現在では頂上部と基部を利用したモニュメントとして設置されており、切り株のような姿になっています。この鉄塔は以前はこの10倍の250メートルの高さがあり、建造当初(1929年)は日本一(東洋一)の人工建造物でした。この高さを抜いたのが東京タワーで、1958年の事です。

長波送信室全景(稼働当時)

この鉄塔は第一次世界大戦(1914-1918)での教訓として、海外の商船や軍艦との連絡を取るための独自の通信網の必要に迫られて設置した通信設備で、国策会社とドイツのテレフンケン社によって作られ、世界最大級の出力を有していたそうです。この通信所を製作するために一時的に鉄道を敷設し、膨大な消費電力を安定的に確保するために変電所まで設置しています(変電所は現存)。全国の数ある候補地の中で依佐美が選ばれたのは、海に近く、周りに市街地や山岳など、電波の送信の障害になるような高い建物がなかったからだと言われています。


戦後はGHQによって接収され、一部の設備は解体されますが、「依佐美の鉄塔」は引き続き米軍によって運用されます。何故なら、この鉄塔は長波の発信所であり、長波は水中に届く特性を持つ事から、主に潜水艦に対して電波を発信していたからです。1941年12月2日には真珠湾攻撃を命じた暗号「ニイタカヤマノボレ1208」を発信した場所だと言われています。米軍の世界最強の海軍第七艦隊への発信所の一つがこの依佐美だったため、ひとたび戦争が起こった際には、ここが真っ先に攻撃されるという話も現実味のある話だったというわけです。

1991年のソ連崩壊後の1993年に依佐美送信所は送信を停止し、翌94年に返還されました。返還されたのは冷戦の終結が背景にありますが、それよりもむしろ技術の進歩によってアナログの通信が不要となり、衛星回線を使用したデジタル通信となったからです。 一方の不安材料だったエネルギー危機も、シェールガス革命によって現在は米国が世界一の産油国となり、資源が余る事で世界のパワーバランスは80年代には想像もできなかった状況になっています。
未来は現在の延長だけで考えるのではなく、現在はまだ見えていない不確定要素を含めた延長にあるのだと、歴史は教えてくれています。